2004-11-01

My Trading Life (1)

最初に株式トレードをしたのは、まだ、大学院に在籍していた頃、87年か88年の春だった。そう、バブルのまっただ中、そしてバブルの崩壊の直前のことである。

その少し前に『オンリー・イエスタデイ』という1920年代の大恐慌直前のアメリカについて書いた名著を読んでいて、強い印象を受けていた。だから、株価や地価の狂乱の後で何が起きるのかは「知識」としては十分に持っていた。しっかし、「知っていること」と「行動すること」が、人間の場合必ずしも同じとは限らないのが不思議なところである。

そして、やってはいけないと分かっていながらやってしまうという人間の心理の不思議さと愚かさを、その後の十数年間の株式トレードの中で、僕はもう嫌というほど思い知らされることになる。

何故、株式トレードをする気になったのか、直接的なきっかけは思い出せない。ただ、その頃には、身近で、ワンルームマンション投資で一財産作ったり、株で大儲けたりした人の話などをけっこう見聞きするようになっていた。そして、僕自身も、アルバイトの塾や予備校の講師の収入で、ある程度の余裕が出来てきた頃だった。

そうそう、何かの雑誌で邱永漢が、神戸製鋼をはじめとする鉄鋼株の買いを強力に推奨しているのを読んだことを覚えている。そして、その数日後、電車の中で、酔ったサラリーマン数人が、神戸製鋼がいかに素晴らしい会社かということ、株価が倍になっても神戸製鋼の株を手放さないぞなどなどと、興奮した口調で大きな声で喋ってるのを聞いて、株って本当に一般的になっているんだなと驚いたことを覚えている。

あの時のおじさんたち、あの後、神戸製鋼の株をどうしたのだろうと、ふと思うことがある。

実際には、あのあと数倍になったのだから、じっとホールドしていれば、数千株であれ、ちょっとした余裕資金になったはずである。あるいは、途中で手放してしまい、悔しい思いをしたのかもしれない。どうなったのかは分からない。が、おそらく可能性として一番高そうなのは、神戸製鋼をどの水準で利食ったにせよ、その資金をさらに別の銘柄に注ぎ込み、次々と銘柄を回転させているうちに、やがてバブルの崩壊にぶちあたり、結局、資金のほとんどを溶かしてしまったというパターンだろう。

そう、多くの者たちが、そうやって、その後、株式資産をなくしていくことになる。
しかし、その時には、僕も、そして誰もが、そんな未来が来ることになるとは夢にも思ってもいなかった。

夜の会社員の帰宅時間の電車の中で、あたりを見渡すと、一台の車両で何人もの人が夕刊紙の株式のページを読んでいることにふと気がつき、びっくりしたことがある。

果実は腐る寸前が一番美味しいし、祭りは終焉の直前が一番盛り上がる。そうした最終段階に時代は入り始めていた。

それでも僕は慎重だったと思う。というか、慎重にやっているつもりだった。
まず、何冊も株式関係の本を買った。チャートブックを買ってきて、飽きることなく何度もページをめくった。チャートの動きには、明らかに何らかのリズムがあるようにも見えたし、また、全くランダムな模様のようにも見えた。
野村など4大証券では弱小個人投資家はまったく相手にされないらしいという話を小耳に挟んだので、小さめの地場証券に出向き、50万円入金して口座を開いた。

最初に買いオーダーを出したのは1518三井松島。
三井松島は株式雑誌の袋とじのページで推奨されていたのを、その雑誌の発売日の翌朝、電話で証券会社にオーダーを入れた。「指し値はいくらにしますか」と電話口の証券レディ(そうそう、証券レディーなんて言葉も死語になりましたね)に聞かれて、その時まで寄りつきで買うつもりだったのに、きっと緊張していたのだろう、なぜか指し値注文になってしまった。
当時はインターネットなど、もちろんあるはずもなく、確か、日経がやっていたテレフォン株価情報で、ほとんど10分おきくらいに株価をチェックしていたことを覚えている。
その日、三井松島はいきなり高値で寄りつき、いったん少し下げたものの、僕の注文の指し値の少し上から、急騰を始め、数日間で300円ほど駆け上がっていった。そして、指先から数十万円が逃げていった。

あのときの悔しさは忘れられない!

今なら、いきなり高値で寄りついた銘柄なら、少し下がったところで、すかさず成り行きで当初の予定購入株数にゼロをひとつ加えてオーダーするだろうね。
ただ、あのときは、仕手株や急騰株に飛び乗ることは危険なので絶対にやってはいけないという北浜流一郎先生や松本亨先生たちの教えに従って、じっと堪えていた。ただただ悔しかった。儲け損なった30万円を思うと、気が狂いそうだった。

その次にオーダーを入れたのは大阪ガスである。こちらはまだ動いていないので、買えなくて悔しい思いをすることはないだろうと思ったのである。

こちらはしっかり買うことが出来た。買うことは出来たがちっとも動かなかった。三井造船がストップ高を演じるような狂乱ディーリング相場のただ中である。他の銘柄は動くのに自分の買っている銘柄だけぴくりともしないのだ。

これも悔しかった!

株式投資を初めていきなり「買えなかった銘柄が急騰してしまう悔しさ」と「自分が買った銘柄だけが動かない悔しさ」を経験してしまった。

その頃になると、昼間、時間のあるときに、証券会社に行き、株式ボードやクイックで株価をチェックすることを覚えた。あの頃の証券会社の店頭の熱気は思い出すと懐かしい。

バブルのただ中である。東証のどの銘柄も上がっていくように見えた。
どの証券会社の店頭にも、まるで出勤するかのように前場の寄りつきにはやってきて、一日中張り付いている常連たちがいた。彼らは、一日中、株価ボードを見上げ、クイックを独占し、もうもうと漂うタバコの煙の中、仲間同士で喋っていた。

しかし、不思議なことに、こうした常連たちはちっとも儲かっているようには見えなかった。
相場は、鉄鋼、造船、海運などの大型低位株を中心とする機関投資家によるディーリング相場が続いていた。ところが、店頭の常連たちの多くは、その1年前、あるいは半年前に大相場を作った銘柄を、売り損ねてじっと持っていたり、下げの途中で値惚れでつかんだまま、ホールドしているらしかった。
彼らの多くは鉄鋼株や造船株が狂ったように急騰する中で、じっと悔しそうにボードを眺め、ため息をつき、自虐的に笑い、そして、またボードを見つめていた。

あの光景から、株式トレードをするにあたって最もしてはならない大切なことを学ぶことが出来たはずだった。

しかし、おそらく、何も学ばなかったのだろう。あのときの僕は。




それから10年ほど後になって、当時、時々顔を出していた証券会社に株価のチェックに入ったことがある。店内はきれいに改装され、あのもうもうとしたタバコの煙もなかった。十年一昔。何もかもが変わっていた。がらんと人気のないフロアーの株価ボードの横におかれたクイックにしがみついている老婦人が一人。その横顔には見覚えがあった。10年前、その店にいつもいた常連の一人だった。彼女は10年分確実に年老いていた。いや、10年以上の年をとっていたように見えた。まるで玉手箱を開けた後の浦島太郎である。髪の毛はぼさぼさで服装もちぐはぐな感じだった。身なりなど構わないのだろう。証券会社の店内には他に誰もいない。彼女には話し相手もいなかった。ぞっとするような光景だった。

たった一度だけの人生。それなのに、彼女は10年間、株価が点滅するのを見つめながら、神経をすり減らし、資産をすり減らしていったのだろう。彼女はそれを自ら選んだのだ。株価を見るのを止めて、他の楽しみを求めることも出来たはずだ。友との語らい、ゴルフ、カラオケ、ゲートボール。株価ボードに背を向け、自動ドアの外に出て、街へ、青空の下へ、彼女は出て行くことが出来たはずなのに。しかし、彼女は自らの意志で、株価を見つめ続ける人生を選んだ。

考えられる限り、これほど痛ましい人生ってないと思う。


(おいおい、2,3回でまとめるつもりだったのに、とんでも長くなってしまったじゃないか~。どうしよう。)

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