2004-11-06

My Trading Life (5)

やあやあ、みんな元気かい。

俺様絶好調だぜ。

ところでさ、俺様、今、9127玉井商船って銘柄いじってるわけ。
で、みんなにお願いがあるんだけどさ。この株、みんなも買ってくれないかな。大証2部の品薄株だぜ、みんなが買えば、すぐに上がって、俺様、大儲けさ。
なっ、俺様は賢いけど、お前らみんな俺様よりお馬鹿さんだろ。知ってるぜ。隠したって分かるぜ。お前らみんな馬鹿だろ?
えっ、玉井商船買ったとして、それからお前らはどうすればいいかって?
そんなの決まってるだろ。自分よりさらに馬鹿な奴を見つけるんだよ。うまいこと騙してそいつに株を買わせる訳よ。玉井商船は今に日本郵船より大きな会社になるらしいとかさ。口からでまかせ言えばいいんだよ。大丈夫、捕まったりしないから。いろいろ材料をねつ造したっていいんだよ。そして、うまく売り抜けるわけ。
騙されて買った奴はさ、また今度は自分より馬鹿を見つければいいわけ。そうやって、みんながみんな、自分より馬鹿な奴を見つけられればさ。株は永遠に上がり続けるって訳よ。最高だろ。このシナリオ!




とシナリオ通りにはうまくいかないことを、1990年の相場は教えてくれた。うまい話は長続きはしないもの。「自分より馬鹿」が簡単に見つかるとは限らない。時に、自分が「一番の馬鹿」かもしれないのである。

1990年の正月を迎えたとき、僕は投資歴が2年弱ほどだったと思う。ちょっと小金が貯まると株式に投入する資金を少しずつ増やしていたので、そして、投入した金額の方が、引き出した金額よりも大分多かったので、おそらく合計300万くらいの金額を株式市場に投入していたと思う。
そして、90年の正月の時点で、持ち株の購入総額は600万ほど、どの銘柄も少しずつ含み損になっていて、含み損の合計は100万に近い金額だった。つまり、一応利益は出していたが、持ち株は含み損ばかりで、相場のことを考えると、かなり鬱な気分になりだしていた。

90年の1月、不安な材料は何もないはずの日本の株式市場は、何故か軟調な滑り出しだった。

今思えば、この時の下げは、その当初から、それまでの、相場のうねりの中での下げとは全く違っていた。高値圏での神経質に乱高下する動きとも、下げが続く中で、恐怖にとらわれた買い方の投げから生じる下げとも違っていた。
そうした不安や恐怖が生む下げではなかった。不安や恐怖が生む下げならば、果敢に押し目買いで挑んで、吹いたところで利食えばいいのだ。

そうした下げではなかった。何というか、確信を持って売ってきているとしか思えないような、売り方の自信が感じられる下げ方だった。

株式トレードを続けていると、株価の上下の中に、売り方と買い方の間に交わされる駆け引き、対話、悲鳴、歓喜。。。そういったものが聞こえてくるような気がすることがある。90年の年初の下げは、売り方の自信に満ちた「意志」が最初から感じられた。

リズムが違うのである。

相場と対話をしながら、売り買いのポジションを動かしていくというのではなく、大資本が目標値を決めて、そこまではためらいなくがんがん売り込んでいくというような、そうした一方向の動きだった。
巨大なタンカーがゆっくり進路を変えていくときのような、風の方向の変化を、あの時、相場に参加していた者は、誰もが感じていたと思う。

おそらく誰もが経験したことのない新しい現実だったはずである。
しかし、覚えておくといい。人間は新しい現実をそうやすやすとは受け入れることが出来なくて、古い言葉で新しい現実について語ろうとする生物なのだ。

株式新聞や雑誌では、底値の見通しについて、チャーティストたちが記事を書いていた。彼らは決まって今の値段より少し下に、底値の目処を置いていて、そこで相場は反騰するはずだと予想していた。彼らの予想は、その数日後に、はずれることになるのだが、そこまで下がると、また新たな判断の根拠が持ち出され、底値が計算されなおす。その値段も、たちまちのうちに、下に突き破られていくことになった。

経済評論家や経済学者は、日本の経済には不安はないのであり、過熱感からの調整はしばらく続くものの、やがて株価は戻るだろうと予言していた。

やがて、株価を下げている犯人捜しが始まり、アメリカの「ヘッジファンド」の売りが原因だということになった。しかし、この説は、まともな経済学者からは一笑に付され、ヘッジファンドは売りも買いもするのだから、株価の上昇要因にも下降要因にもならないと宣告された。株価は自然の摂理により、上昇し下降するというのである。

要するに、誰もが、「新しい現実」に対して語る言葉を持っていなかったのだ。



そして、僕のポートフォリオの中の含み損も、毎日、信じがたいほどの速度で膨らみ続けていた。

一つの銘柄の含み損が5万10万の段階は悔しいばかりである。
この5万円を稼ぐのに、何日間バイトをしなければならないのかとか、5万あれば、何が買えただろう、どんな楽しいことが出来ただろうと、証券会社に電話一本しただけで失ってしまったささやかな幸せを空想し、悔やむばかりである。

20万30万となってくると、悔しさを通り越して恐怖の感情に襲われる。一本の電話が引き起こした損失としては信じられない額に思えて、具体的なイメージが持ちにくくなる。どうしてたった1本の電話のせいで、一月の生活費が吹っ飛んでしまうというのだ。

そして、50万100万となってくると、恐怖ですらなくなる。ある種の無感覚状態になってしまう。現実のものとは認識できなくなる。

「悔しさ」から「恐怖」へ、さらには「無感覚」へ。損失は、そんなふうに人の心の中で形を変えていく。いつもそうだ。常にそうなのだ。損失に対して無感覚になってしまったとき、人はまるで相場に対して謝罪するかのように全てを投げ出してしまいたいという欲望に襲われ、大きな損切りをするのだろう。

ポートフォリオの中は、そんな含み損銘柄だらけになった。





PS.
それはそうと、9127玉井商船。買えよ、お前ら。

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