2004-11-17

My Trading Life (7)

90年4月からの反騰は短期で終わった。
夏にイラクのクウェート侵攻があり、それをきっかけに、しばらく戻りかけていた相場は、また再度下へと向かいはじめた。
含み損の銘柄は、半分ほどは、その短い戻りの間になんとか損切りできた。
が、残りは結局切ることができずに、ずるずると、それから10年間、2000年の2月までホールドし続けることになる。

90年代の10年間については、実は、あまり語ることはない。

まったく株式投資を止めてしまったわけではない。時々思い出したように、株式の新聞や雑誌を買って、良さそうな銘柄を探して、買ったりもしたが、だいたいが高値づかみで、そのまま塩漬けにしたり、時々衝動的に投げたりしていた。

トータルでは1千万以上は確実に損をしたのではないかと思う。
ともあれ、記録をつけることさえ止めていたので、どれだけ損をしたのかさえ分からない。
いずれにせよ、90年代の10年間に、一度も利益を上げた年はなかった。
ちょっと余裕資金があると、株でも買うかと買ってみるが、たちまちのうちに資金は氷のように溶けて小さくなっていった。

90年の4月に大儲けした3408酒伊繊維は、その後サカイオーベックスと名前を変える。この株はその後も何度か手がけることになった。
この銘柄と5814同和鉱業、4022ラサ工は、自己流でうねり取りの真似事みたいなことを続けていた。90年代の10年間で儲かったのはこの3銘柄だけだろう。

場が開いているときに、証券会社の前を通りかかったりすると、店内に入り、クイックを叩いて、株価をチェックしたりはしていた。
コード番号を覚えている銘柄の数はどんどん少なくなっていった。
クイックの前に立っても、キーボードを叩いてみたい4ケタの数字がひとつも思い出せなくて、そのまま店を出てきたこともあった。

91年、92年、93年と、年号を並べていっても、その年の相場がどんなだったかなど、全く思い出せない。

忘れられない思い出は、97年11月。
山一証券廃業の前の最終営業日のことである。
その日はたまたま京都にいた。山一証券の経営が危ないというニュースは聞いていた。四条烏丸の山一証券の前を通りかかったとき、ちょっと店内をのぞいてみた。

狭い店内はものすごい人の数だった。バブルの頃の、あの活気に満ちた人混みではない。もっと殺気だった血の匂いのしそうな人の群れだった。
映画や本で見たあの大恐慌の光景の中にいるような既視感に襲われた。

カウンターに座っているのは、たいていは若い証券レディー達である。
しかし、その日は、カウンターには中年の支店長クラスの男達が座って、客との対応をしていた。
証券レディー達は、全員がその後ろに一列に並んで立っていた。
そして、客や冷やかしの通りすがりが店に入ってくるたびに、声をそろえて、涙をぼろぼろこぼしながら、「いらっしゃいませ、いらっしゃいませ」を繰り返し、頭を下げる。
自動ドアは数秒ごとに開いて、そのたびに、彼女たちは「いらっしゃいませ、いらっしゃいませ」を繰り返す。その声は残響のように頭にこびりつく。悪夢のようだと思った。

店を出るといつもの街の風景である。バブルの頃のあの街の風景とそれほど変わったというわけではない。どこにでもある都市の普通の風景と、今見た悪夢のような光景との、余りに大きな落差に信じられない思いだった。





もう一度、トレードを再開してみようとふと思ったのは、2000年の1月。
ヤフー株ははじめて株価1億円を突破したというニュースをテレビで見たときである。
しばらくチャートも見ていなかった。が、株価1億円を突破する銘柄がでるということは、そろそろ相場環境が変わってきたということだろうなと感じた。

今度は、もう少しきちんと勉強してみよう。そして駄目ならば、もう株式トレードを止めてしまおうと心に決めた。
常識的なやりかたでは駄目なのは分かっていた。株式評論家や日経新聞を頼りにしていては儲からないのも身にしみて分かっていた。

さてそれではどうしたらいいのだろう。

前途茫洋。手がかりは何もなかった。

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