2009-04-06

筋金入りのギャンブラーは死ぬまで直らない?

筋金入りのギャンブラーは死ぬまで直らない? | 株式十八番! 
先日賭博のネタを書いていて、ふと最近読んだ本を思い出しました。
大江戸とんでも法律集 (中公新書ラクレ)という新書本で、江戸幕府による御定書やお触れ書きなどを現代語訳で多数収録してあり、読みやすくてなかなか面白い内容でした。
その本の中で、賭博に関する幕府のお触書や、それに違反して処罰された例などが書かれている箇所があります。いくつか抜粋して紹介します。

かるた博奕その他なんでも諸勝負をしてはいけません。そういう者に場所を提供したら、家主はもちろん、五人組までからなず処罰します (慶安二年(1649)二月「正宝事録」)

碁将棋双六、当座の(ほんの)慰みにも金銀はもちろん蝋燭一本、一紙、一銭を賭けての勝負はしてはいけません (慶安五年(1652)八月「正宝事録」)

博奕はかねてよりご法度です。今後金銀財宝衣類を取られて困っている者は、いつでも訴え出るように。お上はその罪を許し、取られたものを取り返して遣わします (寛文四年(1664)十月「正宝事録」)

とみつきという博奕のようなことが行われているようですが、このような類のことは停止と何度も触れています。不届きなので、この族はきっと召し捕ります (元禄十七年(1704)一月「正宝事録」)
-大江戸とんでも法律集 (中公新書ラクレ) P148~149より引用-
こうして何度も同じようなお触書が出続けているのも、賭博を行う例が後を絶たないことの裏返しなんでしょう。
幕府首脳の「やれやれ」という気持ちが文面ににじみ出ているような気がします。
江戸期は娯楽が現在と比べて少ない時代なので、賭博の社会への浸透性と影響は今とは比較にならないくらいに大きかったのかもしれません。
中には過度に賭博に依存し、ちょっと信じられないくらいの中毒性をみせてくれるギャンブラーもいたようです。
築地本郷町の小左衛門は、奉行所が取り調べることがあって、手鎖をかけて家主に預けておいたところ、手鎖を抜けて博奕をしていたと訴える者があり、死罪。(寛文九年二月「御仕置裁許帳」)

鮫河橋の六兵衛は、訴訟の件で評定所が手鎖をかけて家主に預けておいていたところ、手鎖を外して博奕をしていた。手鎖をしていたのでは渡世ができず、外して人を集めて博奕を催していたと白状したので、手鎖を外した科で斬罪となった。(貞享三年(1686)九月「御仕置裁許帳」)
-大江戸とんでも法律集 (中公新書ラクレ) P151より引用-
この二名に共通するのは、お上からの取調べを受けるために手鎖(今でいう手錠)をかけられて家主のもとに預けられている身分にもかかわらず、許可無く手鎖を外し、自由になった手で賭博を行ったという点です。
余談ですが、当時の家主というのは現代の感覚での単なるアパート・マンションのオーナーとは意味合いが違います。江戸期は士農工商という身分序列が存在しましたが、この「工商」に携わる人全般がすなわち町人というわけではなかったのです。都市の「町人」とは家屋敷を所有する者のことを言い、町政や公事への参加や町年寄を選ぶ選挙権および被選挙権を持つなど、社会的身分や公的権利・義務を持つ人のことを指します。つまり、賃借人や店子は町人とはされず、大家や家主の監督下に置かれていました。文面だけで判断すれば、小左衛門と六兵衛はこうした身分だったのでしょう。そうした江戸期の社会制度を知ると、なぜ家主のもとに罪人が留め置かれていたのかが理解できます。

話を戻しますが、結局この両名は賭博行為が露見したことにより共に死罪となってしまいました。幕府が賭博に対して厳罰をもって臨んでいることは彼らにもわかっていたはずなのに、何故に賭博に走ったのでしょうか。

彼らに生来備わっていたのかもしれないスリルを過度に求める性向がそうさせたのか、もしくはただ単に愚かだったのか、私の中では判断が分かれるところですが、少なくとも彼らは人生最後の大博打には負けてしまったということだけは確かです。

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